くさやのお話

■くさや発祥の地について

『伊豆大島志考』  立木猛治著から以下の文を抜粋。 くさやのできた年代であるが、これはわかっていないというのが本当である、 玩虎洞著 註*1『三日の旅伊豆の大島』に下記の一文がある。> 昔、大島に遠島になった江戸は神田の某という流人が、出発に当たり 密かに近親に告げていうには、「大島に着けばクサヤ製造の手伝いをさせられるそうだから, 俺が製った干物は片目をむしり抜いておく。江戸から送られたクサヤの干物のうちに片目ないのを 見たならば、それは俺がつくったのであるから、まだ無事でいると思ってくれ」と、何かの本にあった。 其の他大島におけるくさやの文献は沢山あり、今日生産量こそ新島の方がはるかに多いが、本家は大島である。


※クサヤについて、新島と本家争いをする積もりはないけれど、 著者が親しく見聞きした下の例を附記して、あとは読者の判断に委ねたい。

◆◆新島本村小学校庭傍に、菊孫商店という海産物製造の老舗がある。
この家の祖父に菊池孫次郎翁・・・生きていれば100歳余りにもなろうが、 博覧強記で漁業に関することはもちろん、土地の故実に明るい誠実な人望家・・・があった。
著者はかつて昭和3年から同12年まで、近所に住んだので毎日のように遊びに行きある日、

・・・  ぼうけ網もクサヤの製法もみんな大島から来たもんだヨ ・・・

と話してくれたことをはっきり記憶しているが、 この人格者たる故老の言は強く傾聴に値する。



◆◆追記: 新島のくさやが世に知られるようになったのは、早くからくさやを主に築地市場に出荷していたため、 島外のデパ-ト、ス-パや小売店などの店頭で販売し、くさやは新島という名を定着させた。

それに比べ、伊豆大島では、古くから来島する観光客が多く、特にくさやの製造元が密集している波浮港は、江戸末期そして明治、大正、戦前、戦後を通じ、「風待ちの港」として大変栄えた港です。 戦前から昭和30年代にかけての最盛期には、風待ちのために停泊する漁船が港に幾重にも連なりました。

波浮港


漁船の乗組員や観光客が全国から集まりました。小さな港町に、お茶屋、カフェ、映画館、芝居小屋が軒を連ね、日本を代表する文人墨客も数多く訪れて、波浮の港に泊まり、たくさんの作品を残しました。

このようなことから、伊豆大島では、古くから来島する観光客が多く、島内のおみやげ屋さんや、 通信販売、住民のくさやの消費(自家用や島外の親類などに送る)が大変多く、ほとんど島内で消費され、 築地市場へ出荷することは全くなかった。そのため、古くからくさやを製造していたにもかかわらず、 大島のくさやは世に名を知られることが新島よりはるかに遅くなったのである。



註*1 玩虎洞は、本名関口児玉之輔氏、大正時代大島電機株式会社の名誉社長であった。

当時東京においても、骨董及び故事の鑑定研究家として広く知られ、今日でも斯道者間にはその名を残している。著者はつとに親交あり,昭和四年の頃、武田父子大島配流につきわざわざ任地新島まで来訪されたことがあるが、大島の土俗研究に熱心であった。 上の文中「何かの本」に果してクサヤノ干物とあったとすれば、大島の流人が廃止になったのは寛永八年(1976年)であるからそれ以前であり、ことに当時は 塩が高価だったので前述自家用程度の干物ならば、これより以前から製っていたとみてよい。



元禄11年三宅島に流された英一蝶が、風雨のため途中新島に寄泊して暫く滞留した。 のち三宅島に着いてから痛く食料に窮迫し、克って新島滞留中味わった室の干物を思い出し、梅田藤右衛門氏?(俗称大屋藤エンニイ)に宛て干物を送って呉れるよう手紙を寄こし、今もこの手紙は同家の保存されているはずである。 その書中に、「クサヤの干物」とある由を 近時宣伝する向きがあるようだけれども、著者が拝見した記憶ではただ室の干物とあるだけで、クサヤとはなかったように覚えている。


『伊豆大島志考』  立木猛治著
昭和36年9月1日 初版発行
昭和48年12月25日3版発行
発行 伊豆大島志考刊行会
制作 中央公論事業出版
『伊豆大島志考』の編さんによせて 
東京都知事 安井誠一郎
東京都議会議員 (前都議会議長)  菊池民一
大島支庁長   白井 貢
大島町長  藤井豊之輔

 






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