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○秋廣平六碑


『秋廣平六』−−波浮港を造った人−−

 いかだ流しの名人、そして一流の炭焼きに

 平六は上総国(現在の千葉県中央部)植畑村で、1753年に生まれました。
父は百姓で茂兵衛と言い、平六は六番目の子供で、「平六」と名付けられました。
 痩せた土地で暮らしていくための食べ物さえ満足に獲れず、平六は10歳のときに
市宿村の秋廣家の養子となり、20歳になった平六はいかだ流しの名人として
有名になったといわれます。
おそらく農作物を売りに行くためのいかだであったろうと思われます。
また炭焼きも一流でその後農業に転じて「平六芋(じゃがいも)」を残して
江戸に向かいました。江戸に出た平六は櫛屋を始めましたがそれだけでは
物足りず、伊豆七島の柘植や桑を手に入れるための渡航の権利を幕府に
申し出ました。
のちに幕府の伊豆七島巡察の船頭となり、1791年幕医田村源長と出会います。


松前船の風街港づくり、波浮港発展の礎に・・・

 平六が田村源長を大島に案内したのは平六36才、源長35才の
ともに働き盛りの時でした。源長の伊豆諸島薬草採取植行の途中、干潮時には
港口を徒歩できる波浮に着眼し港口を掘り割り、松前船の風街港にしようと
考えました。以来渡航を重ね、御蔵島の平六山で製炭し、黄楊の加工を
奨励する一方、江戸の島会所設立に参画し、その後、無人島探検、波浮港
開墾の要を成しました。やがて掘り割り願いは幕府から認められ、1800面3月
着工の運びとなりました。幾多の苦難を経て、翌年開墾に成功し波浮港
発展の基礎を造りました。実に江戸期港湾工事の最たるものでありました。
この波浮港づくりをやりとげた平六の勇気とねばり強さは、きびしいい生い立ちの
中で育てられたものでしょう。
1817年4月22日没。

波浮の港を愛する会の会長
秋廣 道郎